悟りについて考える

ネット検索すれば悟りを開く方法がいろいろ書かれていますが、数学のように悟りを開く方法には明確な答えは存在しないと言ってもいいでしょう。

いろいろな書き物を参考にしてみると、真我と常につながっている状態であることを悟りというのかもしれません。

しかし悟りを開いたと言い切っている人の中にも、自我やエゴなどに囚われる時はあるのが人間で、本当に意味で悟りを開いているのはお釈迦様だけかもしれません。

人間は落ち込むこともあれば過去を後悔することもあれば、将来について不安に思うこともあります。

それは当たり前のことで、落ち込まない後悔しない、将来を不安に思わない人間がこの世にいるでしょうか?

自我やエゴを捨て去ることが悟りだとすれば、それはもう人間を捨てることになるのかもしれません。

自我やエゴというのは人間として生きるためには必要なことで、その時に冷静にニュートラルな状態で起きたことを感じ、それを分析して我を忘れないことができることが悟りを開いた人と言えるのではないでしょうか?

聖者と呼ばれる人たちはこれまで世の中にたくさん登場してきましたが、そのような人たちは自我やエゴがないのではなく、それらと一体化することがない人だと思います。

これはあくまでも個人的な意見であり、本当に聖者と呼ばれる人たちには実は自我やエゴがないのかもしれません。

たとえそうであっても、生まれた時からもしも自我やエゴがなければ、他人の心を理解することはできなく、そのような人が聖者と呼ばれ尊敬されるわけがありません。

世の中にはいろいろな事件が起きて、争いがなくなることはありません。

争いをなくするためには、世の中全ての人が欲を捨て、悟りを開かなくてはいけません。

自我に囚われれば必ず事件や争いは起こります。

自我やエゴを捨て多くの人が考えている悟りを開いたのは、お釈迦様やキリスト様の世界の話で、人間という凡人にはそんなことは無理だというのが多くの人が悟りについて出した結論で、個人的にもその意見に賛同します。

ただし、自我やエゴを常にニュートラルな状態で客観視して、欲望を完全にコントロールできたなら、悟りを開いた人と呼べるのではないかと考えます。

特に若者は肉体的にも欲を捨てきることは難しく、高齢になればなるほど肉体的にも精神的にも自然に欲望は薄くなり、悟りを開きやすくなるのかもしれません。